昭和大学呼吸器・アレルギー内科医局の歴史


 医局の歴史(歴代教授含む)

 呼吸器・アレルギー内科の前身、第一内科学教室は創設者の上條秀介先生により昭和3年4月に立ち上げられた内科学教室を始めとする。上條先生は昭和21年、内科の診療を大きく第一内科と第二内科に分けられ、吾妻俊夫教授が第一内科としての初代主任教授となる。当時は肺結核が大流行し結核患者で病床が溢れた。昭和26年10月東邦大学より杉原仁彦教授が客員教授として着任し喘息外来を立ち上げられ、患者が殺到した。吾妻教授は多忙で脳出血で昭和30年7月倒れられ、後任は東京大学沖中内科から久保郁哉教授が着任、研究室を整備し化学療法の研究を行われた。昭和31年10月新谷博一助教授が着任し循環器を中心に診療にあたられた。久保教授は医局員を良くまとめられ、研究を推進された。しかし、再生不良性貧血を発症され、昭和33年6月亡くなられる。昭和34年東京大学物理療法学内科から川上保雄先生が第一内科主任教授として着任される(上條先生が初代教授とすると4代目)。川上先生は化学療法の研究を行われてきており、また喘息の特異的減感作療法を日本で行われた先駆者でもあった。昭和39年6月第三内科学教室が開設され主任教授として新谷博一先生が就任した。川上先生は多くの医局員を育て、大学では医学部長を長年務め、学外では昭和52年10月日本アレルギー学会の会長を務める。昭和53年5月昭和大学理事長に就任した。昭和54年3月川上教授が定年となり同年4月高橋昭三教授が5代目の主任教授に就任した。高橋先生は関節リウマチ、アレルギー学を専門とされ「和を持って尊しとなす。」をモットーに、温厚な人柄と豊富な学識で医局員をまとめられた。看護専門学校校長、昭和大学病院長を勤められ、平成4年11月に日本アレルギー学会の会長を努められ平成5年4月から第6代目主任教授の足立満先生にバトンを渡された。足立満先生は主任教授として多くの難治性喘息患者を診療するともに、喘息治療に対する吸入ステロイドの普及に尽力された。

  平成13年4月昭和大学横浜市北部病院の開設にあたり、都立荏原病院出向中の中島宏昭先生が呼吸器センター長として医局員とともに就任する。また第一内科は呼吸器・アレルギー内科、糖尿病内分泌内科、リウマチ膠原病内科の3科に分かれ、それぞれが独立した診療科を持つ事になる。足立満先生が呼吸器・アレルギー内科の診療科長として平成24年3月までの19年の長きにわたり研究・臨床・教育の指導にあたられた。平成24年4月より腫瘍内科教授に佐々木安綱先生が就任され肺癌の診療を呼吸器・アレルギー内科と協力して行う事になる。平成25年4月相良博典先生が獨協医科大学より第7代目主任教授として就任され、伝統を引き継ぎつつ、新しい体制で教室の運営に取り組まれ、新入医局員の数も増し、研究・臨床・教育の3本柱を充実させるべく発展の兆しを見せている。